20180203 Sat. イタリアを旅して(8)アグリジェント 

イタリアを旅する(8)アグリジェント



Agrigent

アグリジェントは「アーモンドの里」でもあり、ギリシャ遺跡群が、立派に存在し続けるところでもある。
桜か、梅か、と見紛う薄桃色の花が、1月でも咲いている。2月のはじめにはアーモンドの花祭り(Sarga del Mandorlo in fiorre)がこの場所で開催されるとのこと。フィレンチェあたりだと3月にならないと開花しないらしいが、ここアグリジェントでは12~2月が開花時期だというのだから、いかにシチリアは暖かいか、ということである。このあたり、「神殿の谷」と呼ばれる。アーモンドとギリシャ古代遺跡群、ふしぎな取り合わせである。

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古代ギリシャ人は、気候も風土もよく似たこのアグリジェント以外にもたくさんの植民地都市をもっていて、本国ギリシャと同じような都市を作り上げた。ここアグリジェントも、かつてはギリシャ人によって「アクラガス(Akragas)」と呼ばれた町で、ここから70kmほど東にあるジェーラ(Gela)からやってきたドーリス人の植民地として、紀元前582年に建設されたそうだ。

アグリジェントの歴史(「イタリア美術鑑賞紀行」によると)、

僭主テロン(Terone 488BC~473BC)の時代には、カルタゴを破るほどの勢力に発展した。宇宙の万物は人空気と水と大地の4元素からなるという「四元説」を提唱したエンペドクレスがアグリジェントで活躍したのは、ちょうどこの頃のこと。かれはまた、最後に自分が神々の一人であることを証明しようとして、エトナ火山の噴火口に身を躍らせたという伝説も残っている。

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その後、紀元前406年、カルタゴの反撃にあって、アグリジェントは徹底的に略奪され、崩壊してしまった。紀元前340年にシラクーザによって再建されたものの、紀元前210年にはローマの支配下に入って「アグリゲントウム(Agrigentium)」と呼ばれるようになった、と。

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その後、806年にアラブの侵攻を受け、町は再び「ケルケント(Kerkent)」と名を変えて、新たな街が丘の上に再建されるようになった。その後はシチリアの他の都市と同じ運命を辿り、1086年以後はノルマン支配下に置かれるようになった。

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今も残る神殿の遺跡は、本国ギリシャのアクロポリスの遺跡とちょっと規模の小ささは感じるけれども、姿形は、とても良く似たもので、往時を偲ぶことができる。

同行の人たちは、「あら、これで、ギリシャに行かなくてもすむわ」と言っていた。

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